昭和49年11月07日 朝の御理解



 御理解 第48節
 「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」

 なかなかほっておく様な心というものが、簡単に出来るとは思われません。ここに道理を例えば子供でも、言う事を聞かぬ時にもう知らんよと。もうかまわんよと言う様な、心にはなれます。それは子供が言う事を聞かぬ時の事であって、さあそこに死ぬか生きるかと言った様な問題に直面いたします時に、そういう心の状態になれると言う事は、それは大変難しい事です。難しい事ですけれども、それが段々出来て来る様になる。
 これはどなたのみ教えかは知りませんけれども、こんな「神信心する者と、せぬ者とは、その時は分からぬが五年、十年一昔たってみると分かります。何でも辛抱が徳じゃ。」と言う様な御教えが出てます。信心のある者、無い者の違い。同じ信心をしておっても信心辛抱をし続けた者そこにです。是は教える教えられるではなくて、いつの間にか身に付いてくるものではないかと思います。ただおかげを頂くおかげを頂くと言うだけで、信心をするのは、いわばそれは信心と言う事にはならない。
 信心とはどこまでも信ずる心。信ずる心が次第に強うなってくる。勿論神様を信ずる。神様の御働きそのものを信ずる。そして自分の心が次第に、いわば真心の人になって行く。いわゆる真心真心。愈々神心いわゆる神心自分の心が神様へ向こうて進化している。進んでいく人格から神格化して行く信心。それを信心と言うのだ。そういう信心が段々三年、五年又は一昔と言うふうに、ここでは言っておられますが。そういう信心が信心辛抱し続けられて徳を受けていく。いつの間にかそれが自分のものになってくる。
 しかし確かにそのようですね、信心と言うのは。いつの間にこの様な場合に慌てんで済む自分になっておるだろうか。いつの間にこの様な事が、腹を立てんで済む自分になっておるだろうか。腹を立てる何処ろではない。心の状態ではお礼を言うとるような状態だ。いつの間にか、そういう信心させて頂く者の、信心の値打ちというものが、身に付いてくる。そういうおかげを頂かせて頂く事が、尊いのであり有難いのであり、そういう信心が、私はあの世にも持って行けれる。
 この世にも残して置けれるというお徳を受けて行く事だと思う。だからどんなにいやもう、十五年しよります二十年しよりますと言うても、ただおかげに終始した信心では、そういうものは生まれないと思う。信心それはもうそのまま、当然の事当たり前の事。日々神恩報謝の生活さして貰うと言う事は、人間として当たり前の事としての信心でなからなければ、おかげを頂くから、信心が何十年続いておると言う様な信心ではです。私はそう言う様ないつの間に、そういうものが身に付いてきたかと言う様なものは生まれて来ないと思う。私はこの事を本当にそう思います。
 昨夜夕方丁度私が四時の御祈念を終わっとります時ですから、四時半で終わりますから、下がろうとしよります所に、池尻の者が昨日退院のおかげを頂いて、親子四人連れでお礼参拝をしてきました。神様のご都合ちゃ恐れ入ってしまいます。本当に今夜は家で食事をさして頂くように、退院を祝わせて頂くけん。何かそれが昨日は、丁度壱岐からお参りがあっておりました。大きなブリやら鯛やらお供え持ってきて。それでまあ色々おご馳走を造っておりましたが。
 まぁ内々だけで、久富先生が一人かたって頂いてから、椛目と私のとまぁ皆んなでお祝いをさせて貰うて、神様にお礼もうさせて貰うて、それから一緒に食事をさしてもらう時でした。私は家内に丁度二日目の、小野先生所から、久留米の病院に移されました時、その翌日でした。小野先生が遅くでした。私も家内、部屋に下がっておる時でしたから、二人でテレビを見てました。
 その時、小野先生がやって見えましてから、もう本当に大変でした。今度はも親子とも、これは命落とすかと思いましたち。けどまぁおかげでお母さんのほうだけは、親のほうだけは、取り留める見込みが付きましたけれども。奥さんあなたがご覧の通り、赤ちゃんがああいう真っ黒になって出てきた。もうあれは絶対駄目です。こういう言い方でした。だから、もう諦めといて下さいよと言う、いうならば宣告です。それであれを聞いた時に、お母さんお前はどげん思うたと、夕べ夕食の時に聞いたんですよ。どげんち言うちからち、こげん言いますもん。もうほんとにそれこそ、顔色一つ変わらじゃったというのは、この事じゃろとこう思うです。
 私自身も勿論そうでしたが、何かよその事を聞きよるような感じでした。テレビをつけておりましたが、先生が見えたからテレビをちょっと、細める事だけはしましたけれども、やっぱり先生帰られたら、テレビを大きくしてテレビを聞かせて頂いて、その事は二人で話し合いも致しません。勿論それは私共夫婦だけにしか、先生が言っておりません。椛目の親子には、その事は話しておりません。
 それが四日目でしたかね。三、四日目に小野先生が、ここにやって見えて親先生赤ちゃんが助かるかもしれませんよち言うて。産婦人科じゃ全然駄目だち言うとった。それをあの、小児科のほうに回したら、まあだ脈があるというのでそう言われたので、助かるかも知れんと言うたのが、四日目位でした。と言う様にいわば、おかげ頂いたというのがです。どう言う事でしょう。私共夫婦がですそれこそ、自分の子供が言う事を聞かぬ時に、ほっておく様な心持と仰るが。
 その言う事を聞かぬ時に、ほっておくという心持以上の心持だったと思うです。私はあれば聞いた時には、もうドキッとしましたとか。本当にびっくりしましたとか、そういう風に言いませんでした。どげんち言うてからちどげんも思わじゃったと言う様な顔して言うんです。また事実そうだったと思うのです。その雰囲気から。だからそう言う様なものがいつの間に、この様に備わっておるか。そういう心の状態になる時に、おかげは間違いないと言う事です。先ずそうですよ。
 お取次ぎを頂いて安心が出来た時に、もうおかげになる時と思うて間違いないです。不安で不安でたまらん。心配で心配でたまらん。その時にはだからその不安が、心配が取れる位に一生懸命神様におすがりをするんだ修行させて貰う。そういう心のおかげの受けられる状態にならせて頂く稽古をする。そらもう小野先生といったら、恐縮しきってそれでもやっぱり、とっさに死んだというたんじゃ出来んから、あらかじめ私共夫婦に、その事を、宣告に来ているわけです。
 その事のために来てるんです。そう言う様に何か他所事のような感じだったし、家内としても今も申しますように、私は椛目の親子にも聞かせておきたいと思ったから、昨日初めてその事について触れたわけです家内と。だから椛目の親子も、そげんであると言う事は知らなかった。聞いてないもんですから。助かるもんとばっかり思うとった。まぁ安心しとったわけです。けれども医者の見立てでは、そうであったけれども。
 愈々私共の受け心というものが、ままよと言った様に度胸を据えるという程しの事でもなかったですほんとに。それこそどげんしちからって、家内が申しましたが何も考えてなかったというのです。私共はそれからまたテレビを見続けましたが。そういう心の状態が、いつの間にか備わっておると言う事がです。信心が当然のもの当たり前の事として、信心が成される様な信心からしか生まれて来ないと言う事を今日は感じます。
 それは十年二十年信心しておってもです。ただおかげが目的だけの信心では、勿論それは信心とは言わん。御道で言う信心とは愈々信ずる心、信心が強うなってくる。愈々真心になってくる。心が清められてくる。改まった上にも改まって研く上にも研く事が信心だと思い込ませて頂く。そこに自分の心がしんじん神心神心に向こうていく。人間の世界のことはまるきり、よそ事のように見れれる。人間の難儀と言うものは、もうそれこそ神愛そのものとして見えれる様な状態がいつの間にか出来てくる。
 私は信心の値打ちと言うのは、そう言う事だと思うんです。信心しておかげを頂くと言う事が重点ではなくてです。とにかく信心をさせて頂くと言う事は、人間として当然の事当たり前の事。この世に生を受けたのは、その信心を身に付けるために、この世に生を受けておるんだと言う様な思い。また事実がそうなのですから、それが分からにゃいけないという事であります。
 だからそういう信心をさせて頂く者の上にです。これは神様が与えて下さるもの。どの様な場合でもうろたえんで済む、慌てんで済む心がいつの間にか備わっておる。それこそわが子の病気だからと言うて、うろたえたらいけないぞと。子供が言う事を聞かぬ時にもうあんたばっかりは知らん。もうあんたばっかりは構わんと、親が言うてその一時ほっておく様な、そういう心の状態を、そういう心の状態を作れと仰った。そういう心の状態をほんなら、そうなれと言うてなれるもんじゃない。
 さぁもう子供が息引き取るごたる状態ですと。そげん時はもうほうからけときなさいち。みんな幾ら言うたっちゃ、ほうからかしはきるまい。それがですそういう心の状態を頂かせて頂く為に、信心があるというておるのです。それはなろうとしてなれる事では無い。いつの間にか備わるものなのです。それには本当の信心を、当然の事当たり前の事として、出来ておる信心からでなければ、生まれてこない。お願いをしておかげを受けた。お願いをすればおかげを頂くと、おかげに終始しておったんではです。
 いわゆる信心から真心、神心と言うふうな事」も出来ません。神様を信じて疑わない信心が、段々身に付いてくる。そのためには本気で信心とは、本心の玉を研くものぞや。信心とは、日々の改まりが第一と仰せられる、その、第一的なところを、本義にさせて頂いて改まる事に、いわば清まらせて頂く事に精進させて頂く信心。そこから自分の心がです。人格から神格化してくる信心。そういうおかげを頂きたい。
 教祖様のお心としてこう言う様な事があります。この頃早川さんがずっと神様からお知らせを頂いておる。夕べもご神命で夕べから、お参りをしてきております。それも頂いたことを控えておる、様々な普通ではこうして皆さんに聞いてもらう事は出来ないような、重大な事やら、色々ございます中にね。しげのうしと茂子と言うか、しげの茂の氏と言うて、この頃呼び掛けられたそうです。
 それが「茂の氏これより生活をして、神のみ教えの通りに働いてくれ、そのほうの仕事は、神が助けてやる。一切の仕事をして、神の世界に生きよ。此の方金光大神、そばにおりて助けてやる。生き生きとした信心に努め、天地の中に生きよ。天地は永久なり。人の世を捨てよ。神々の願いによりて大坪総一郎、今ここに世を救い人を救わんと、金光教合楽教会建立の音高く、天地の中に生きる世々の神、等しくこれを助け世界の平和を願わん。一切のもの全て無なり。
 一心に願えおかげを受け、人々の難儀を救うてくれ。此の方金光大神、ここにおる。人々を救え、励めよ」と言う様なお言葉を下がっておるですね。だからこういう頂き方をさせて頂けば、そういうこの事を夕べ遅う出てまいりましたら、これを持ってきましたから。御祈念させて頂きましたら、神様が本当の事を教えて、本当な教導をして下さると言う事です。いわゆる稽古をさせて下さってある。それもただおかげを目的で稽古させて下さるのではなくて、神様の心をそのまま伝えて稽古をさせてくださる。
 こういう生き方が身に付いて、それが辛抱出来ていければ、間違い無し心は神に向こうていくでしょうね。これはまた特別の事だとこう思うんですけれども。結局ぎりぎりのところはです。ここの所を分からせて頂く事なんです。いわゆる信心一筋になってくれという事なんですよ。お互いのは信心一筋という事ではありません。そのためには仕事のほうも止めてくれと言わんばかりの所が御座います。
 信心一筋です。だから私共の場合は、その問題その願い事を通して、その事によって信心を悟らせてもらう。いわゆる信心真心神心。愈々信ずる心を強く真心を、愈々大切に愈々自分の心が、神格化していくというか、しんじん神心にならせて頂く、そういう信心をさせて頂いたら人間の世の中、人間の世界の事等は全然、無関心になってくるだろうと思いますけども。私共は無関心になると言う様な事は一遍にゃ出来ません。
 けれども段々今日私と家内の心の状態を、聞いて頂いたようにいつの間にか、そうならせられておる。それはどうしてかというと、信心せにゃならんからしよるのじゃない。もう当然の事として信心させて頂いておると言う所にです。私はいつの間にか自分の子供が、生きるか死ぬるかと言われ、いや死刑の宣告を受ける様な事を言われてもです。それが平気でおれれるような心の状態が授けられる、頂かれると思いますね。
   どうぞ。